記事の詳細

もうこれ!
これでしょ!
私の独断ですが、初めてのカラテ映画。

【初祝唐手剣法】(昭和12年1月5日公開)
監督:白井戦太郎
撮影:岩藤隆光

原作:山根豊
脚色:不破健二

出演
杉山昌三九:足軽 助十
関三郎:老仲間 彌作
桂木輝夫:水野八十左衛門
水川八重子:娘 早苗

kenpo

侍の屑とまで呼ばれていた足軽の助十(杉山昌三九)だが、ある日主君を殺害されたため
助十は即座に彌作(関三郎)と伴に仇を追い求め江戸へ向かう。

江戸で助十は唐手術の水野八十左衛門先生(桂木輝夫)の邸宅で下郎奉公をしていた。
そんな中、水野の娘、早苗(水川八重子)は助十に恋慕を抱く。

試合の当日、助十と彌作は来客の旗本中に仇の安藤帯刀を発見した。
しかし、頑固一徹な水野は彼等の仇討の大望を密かに知り、助十に報復の時期を与えないよう、
心ならずも助十に暇をだした。

追いやられた助十は孤立した生活を始めることとなったが、一つ厄介な荷物が彼の傍を
離れなかった。それは助十を慕って家出した娘の早苗だった。

国元へ仇討赦免状と若様を迎えるべく江戸を発った彌作だが、喜んで迎えてくれるはずの
主君の奥様も若様も、そして大勢の家臣達も口を揃えて彌作と助十の馬鹿正直さを嘲笑した。

彌作は仇討がどんなにつまらないものか、そして操り人形にも似た自分たち足軽の姿を
見せつけられ失望してしまう。

彌作の帰りを待つ助十であるが、水野から仇討の機会を与えられることになる。
しかし、それをいち早く知った仇の一行は失踪せんとするが、彌作の帰りを待ち伏せし
闇討ちしてしまう。

傷ついた彌作が助十に投げかけた言葉は何だったろうか。
騙された悔しさ、踊らされた腹立たしさ。

助十は、主君の仇討は捨てても、彌作の復讐は忘れなかった・・・・

【解説】

解説とまでいきませんが、これはキネマ旬報(1937年1月)に書かれていた映画紹介の文を今の人でも
分かりやすいように?書き直させてもらいました。

要は、どうしようもなかった足軽が友とともに立派に主君の仇討を果たそうとするが、現状はそんな時代錯誤
なことと笑われ、そして友を殺害されることにもなり、復讐を決意するというストーリーですかね。
そこで大事なところ。

復讐の場面は唐手ではなかったのか?
でないと、唐手術の水野八十左衛門の元で奉公したストーリーが意味なくなるような気がします。

この復讐するストーリーは、絶対にカラテ映画の原点ですね。

で、この題名が納得いかない。
なんで唐手剣法なのか?

1933年(昭和8年)に「唐手拳法」という技術書が陸奥瑞穂著・金城裕解説により発刊されています。
この時は、もちろん剣法でなく拳法です。
それ以前も1922年(大正11年)「琉球拳法唐手」 富名腰 義珍 著が発刊されています。
拳法という概念が無かったため、このような題名になったかと思ったのですが、そうでもないようです。

ということは?

唐手術プラス剣術の融合だったのかとも思われますね。

これは、映画観てないので分かりませんが、その当時観た人、映画に携わった人に聞くしかないですね。

ちなみに、主演の杉山昌三九さんは1927年に日活現代劇部に入社。
無声映画の頃から活躍され85歳で亡くなられています。
テレビドラマ「必殺仕置人」第4回(人間のクズやお払い)に1973年頃まで出演されたのが最後のようです。

1938年(昭和13年)「噫軍神杉本中佐 死の中隊」にも主演されています。
軍神 杉本五郎中佐を描いた映画ですが、これも観たい!
監督は同じく白井戦太郎さんで、白井監督は広島への原爆投下で戦死されたそうです。

『噫軍神杉本中佐 死の中隊』昭和13年大都映画作品(1938年/モノクロ/ 75分)

映画/千夜、一夜 ―早すぎる、遅すぎる、映画を求めて

軍神杉本五郎中佐と日本人的生き方
「軍神杉本五郎中佐と日本人的生き方」

話が、かなり逸れましたが、カラテ映画だけでなく日本人としての歴史も知る必要があるかと思います。

関連記事

コメントは利用できません。

Face Book

ninja

ページ上部へ戻る